ドミニク・チェン「フリーカルチャーを作るためのガイドブック」

フリーカルチャーをつくるためのガイドブック  クリエイティブ・コモンズによる創造の循環

フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環

出版されたと聞いてすぐに購入して少しずつ読み進めていたのですが、ようやく読み終わった。個人的にはクリエティブ・コモンズ等の動向は聞いていながらも、本質的なところまでは理解できていなかったので、本書を読んで改めて考えるきっかけとなり大変勉強になった。
本書の目的は以下のとおり。

本書の目的は、フリーカルチャーの起源と現在、そして未来について整理を行ない、私たち個々人が今後の文化の形成にどのように参加していけるかという道筋を明らかにすることです。そのために、フリーカルチャーが誕生した背景を解説し、その主要な活動のひとつであるクリエイティブ・コモンズの運動を紹介し、さらにはフリーカルチャーが内包する価値観について考察します。この歴史の参照を通して、法、技術、文化を含めた私たちの社会がいかに改変可能であるか、またどのように改変していけるかというヒントを、少しでも浮き彫りにできればと思います。(p.9)

様々な事例を通して、まさに法・技術・文化の点から現在の動向を整理すると共に、その位置づけを様々な概念でまとめ直しており、単なるクリエイティブ・コモンズの動向をしること以上に「ものをつくる」とはどういうことかということを考えさせられる。
個人的には、第6章「継承と学習から文化は生まれ直す〜新陳代謝する創造の系譜」が面白かった。エリク・エリクソンの「ジェネラビリティ(世代性、世代継承性)」、ジョナサン・ジットレインの「ジェネラティビティ(生成力)」という同じ言葉だが異なる概念をもとに、両者の共通性「結果を予測できない生成力」を抽出し、そこから「継承力」という訳語を提案するというところは、流石ドミニクさん!だなと。

孫崎享「戦後史の正体」

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書1)

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書1)

孫崎氏の著書は、確か大学生の時(10年ほど前)に下記の本を読んで、国際関係に興味を持ったこともあるので、非常に思い入れのある著者の1人。といっても、その後著者の書籍は本屋で見かけても立ち読み程度で、ほとんど読んでいないのだが・・・。

ただし、本書は色々と新聞等でも取り上げられているのを見て関心を持ち、久しぶりにじっくりと読んだ。

戦後の日本外交は、米国に対する「追随」路線と「自主」路線の戦いでした。
(中略)
米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に戦後史を見ると、大きな歴史の流れが見えてきます。(p.6-14)

とし、本書も米国との関係性という観点から、日本の外交史を説明している。戦後の政治家や官僚等を、「対米追随」と「自主」に分類し、「自主」路線の政治家は結果的に排斥されているという説明は、確かにそのとおりで、興味深い指摘。

また、なぜこの観点からの研究がされていないのかという点については、以下の様な指摘をしている。

大量のアメリカ研究者が存在するわりに、「米国からの圧力」を研究して本に書く研究者が、他にほとんどいないのです。どうしてでしょう。
(中略)
私はあるとき、「外務省の官僚が従米になるのはわかる。でも学者がなぜもっと自主的な発言ができないのか」と述べたことがあります。するとある教授から、「われわれだって事情は同じです。留学したり、学会に出たり、米国大使館でのブリーフィングを聞いたり、米国に抵抗していいことはなにもありませんよ」と言われました。
私は現在の日本の米国研究者が、占領時代と同じ行動をとっているとまでいうつもりはありません。しかし、ひとつの組織が誕生時にもっていた性格は、修正するのがそう簡単でないことも事実です。(p.134-137)

色々とお世話になった人に対しては悪いことは言えないし、できない。そういった関係性は確かにあるだろうし、否定できないが、とはいえこれをそのまま受け入れてしまうのも悲しい。

色々と始めて知る事実もあり、大変面白く読んだが、構成の問題かもしれないが、脱線気味の話が要所要所に入っており、もう少しコンパクトにまとめられたのではないかという気もした。学術書としてではなくノンフィクションとして読んだほうがよいのかもしれない。もともと高校生でも分かるように、という出版社からの要望を受け書いたとも書かれているので。

なお、日本の戦後外交史の分野については、

戦後日本外交史 第3版 (有斐閣アルマ)

戦後日本外交史 第3版 (有斐閣アルマ)

上記の本で個人的には勉強させていただいたこともあり、お薦めです(読んだのは第二版ですが)。
あと、こちらも最近文庫版が出ていたのを本屋で見つけましたが、こちらも名著。
昭和史 (上)

昭和史 (上)

昭和史(下)

昭和史(下)

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか」

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

お金で買うことができるものは何か、あるいはお金でかってはいけないものはあるか。あるとしたら、それはどのうようにして決められるのだろうか。本書では、この問題について様々な事例をもとに検討をしている。大行列に割り込むためにお金を支払うこと、臓器売買、赤ん坊の売買、結婚式の友人代表スピーチの売買、有名大学入学の権利などなど。。
それが良いのか、悪いのか、本書では明確な結論は出しておらず、様々な学説等を紹介しつつ、どのように考えていくべきか自分自身で考えるためのネタを提供してくれている。
重要なのは、そのことについて考え、議論していく必要があるということだろう。

書物、肉体、学校の意味と、それらの価値をどう決めるべきかをめぐっては、人によって意見が異なる。実際、市場が侵入してきた領域ー家庭生活、友情、セックス、生殖、健康、教育、自然、芸術、市民性、スポーツ、死の可能性の扱い方ーの多くについて、何が正しい規範なのか、意見が一致していない。だが、私が言いたいのはそこだ。市場や商業は触れた善の性質を変えてしまうことをひとたび理解すれば、われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるをえない。そして、この問いに答えるには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない。
そのような熟議は、善き生をめぐって対立する考え方に触れざるをえない。それは、われわれがときに踏み込むのを恐れる領域だ。われわれは不一致を恐れるあまり、自らの道徳的・精神的信念を公の場に持ち出すのをためらう。だが、こうした問いに尻込みしたからといって、答えが出ないまま問いが放置されるわけではない。市場がわれわれの代わりに答えを出すだけだ。それが、過去30年の教訓である。市場勝利主義の時代は、たまたま、公的言説全体が道徳と精神的実態を欠いた時期と重なった。市場をその持ち場にとどめておくための唯一の頼みの綱は、われわれが尊重する善と社会的慣行の意味について、公の場で率直に熟議することだ。(p.282-283)

そして、善き善を考えることはすなわち、我々が誰とどう生きたいのかというところにつながる。本書の結論は昨日のフィルターバブルの話と通じるところがあり、結局のところ市場に任せると金銭によるフィルタリングがされてしまい、同じ所得層の人としか付き合う必要がなくなるということである。異なる職種や価値観をもった人と出会う機会が減ってしまう。そうなると共通善を尊ぶという考え方は身につけられないのではないか。

つまり、結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。(p.284)

この「ともに」という点が一番考えさせられる言葉だった。

閉じこもるインターネット〜グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

Google, Facebookなどをはじめとして、フィルタリング技術がウェブ上のさまざまなところで組み込まれてしまったことで、フィルタリングによるフィルターバブルに包まれてしまい、それ以外の情報に気づかずに過ごしてしまうようになった。

インターネットは自らのアイデンティティを育て、様々なことをトライするチャンスを提供してくれるというのに、パーソナライゼーションという経済性の追求は個性を不変なものにしようとする。インターネットによって知識やコントロールが分散する可能性があるというのに、実際には、我々が何を見てどういうチャンスを手にできるのかといった選択がかってないほど少数の人の手に集中しつつある。(p.267)

このような指摘自体は特段目新しいものではなく、これまでも様々な人が指摘している。
本書のp.24でも参照されているが、2000年に法学者のキャス・サンスティーンも同様の警告書を記している(日本語訳は2003年出版)。

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か

著者自身は、とは言いつつもインターネットが消えるわけではないので、個人や企業が「何を目的とするのか」というビジョンを明確に持つことが重要だと指摘する。そして、具体的に個人や企業が何ができるのかというところまで踏み込んで検討している点が、単なる問題点の指摘だけに留まっていない点で、具体的に考えるきっかけとなる。その1つは、フェイスブックは使うな、ということなのだろうか。

法律時報(2012年9月号1051号)

注目したのは、「特集 国際社会におけるルール形成と国内法」。上記の本の読後の興奮冷めやらぬ中、同様のテーマの特集論文が掲載されており、思わず一気読み。

■特集 国際社会におけるルール形成と国内法
国際社会におけるルール形成の諸相……片山 達
グローバル・ガバナンス――国際ルール形成と国内実施のメカニズム……城山英明
日本の規制改革とTPP……中川淳司
個人データ保護法制に関する欧米間の調整と多国間のルール形成……中崎 尚
金融危機後の金融規制に関する国際的なルール形成……神田秀樹
コーポレート・ガバナンスの収斂と、その背景……大杉謙一
租税法における国際的規範形成と国内法――OECDモデル租税条約の規範性を中心に……藤谷武史
再生可能エネルギーに関する二大アプローチと国内法……大塚 直
貿易上の懸念に関する多数国間レビュー……泉 卓也
韓国の立法動向――米国法文化の影響という視点から……白井 京

競争戦略としてのグローバルルール

競争戦略としてのグローバルルール―世界市場で勝つ企業の秘訣

競争戦略としてのグローバルルール―世界市場で勝つ企業の秘訣

世界にその卓抜した技術力を誇る日本は、それゆえに1つ気をつけなければならないことがある。「技術力」と「技術力を活かすルールをつくる力」は別物だということである。(p.29)

国際経済交渉にあたる現役の官僚が、グローバルルールがいかに作られているのか、その中で各国、あるいは民間企業がどのようにその思惑を実現しようと動いているのかを著者の実体験をもとに書かれた、非常に刺激的な本。
特に日本は「技術力」があるものの、それを世界の交渉の場で活用しきれていない。
その背景には、

  1. 技術力を過信してルールに意を払わない
  2. 技術力があるのだからルールづくりでも発言権があると漠然と期待する
  3. 技術があればルールは不要という論陣をはって仲間はずれにされる

といった3つのパターンがある。(p.32)

「日本は技術力があるにもかかわらず、技術標準化で出遅れているのはけしからん」という議論をよく耳にする。しかし、この議論は標準化というルールづくりの理解が十分でないことを示している。それは、標準化されるのは何らかの社会的意味がある技術であって、「高度で優れた」技術が標準化されるのではないということである。技術をルールとして世界標準にするということは、社会的所作なのである。ある技術を技術標準にしたければ、標準化することによって広く世界の産業、消費者が禆益するということを、他のプレイヤーに納得させなければならない。それができれば、技術が完成する前に標準化のプロセスをはじめることすらできるのである。(p.35)

技術力があっても、それを交渉のルールに活用できなければビジネスとして利用することができない。そのためには、そのルールの理念を他の関係者に説明し、納得してもらう活動が必要ということ。ただし、その交渉力が世界の中でまだまだ弱い。そのためには、どうすればよいのか、本書ではそこまで踏み込んで色々と提案されており、自分自身の活動にも色々と活用できるノウハウや考え方がてんこ盛り。是非多くの人にも読んでもらいたい本です。
なお、以下の指摘が個人的には自分も強く共感した。

「言い出しっぺにやらせろ」、自分で行ったことには自分で責任をとれ、「口にした」以上、「実行」する義務を負う。日本社会の文化的規範、日本的な「責任」観だ。
しかし、この発想も日本が理念や価値観をのびのびと世界に訴えかけることを妨げる。「言い出しっぺにやらせろ」ということは、言い方を変えれば「実行できる範囲で発言せよ」ということである。これは「できる見込みのあることしか言わない」に容易に転嫁する。考えてみれば、理念を語る能力に秀でた人間が実行能力にも恵まれているとは限らない。人間にはそれぞれ得意なことがあるとすれば、「言う」人間と「行う」人間は別で良いはずだ。何かを言えば最後まで責任を負わされるなら、人は口を閉ざし縮こまる。
国際社会では「理念、目標を掲げる」人たちと「実行するための知恵を絞る」人が別であることは別に珍しくない。第2時世界大戦後にヨーロッパの統合を訴えた少数の理想家と、統合を少しずつ、しかし、着実に実行した実務家は別の存在で合った。外国では「そんな事言うなら自分でやってみろ」といった類いの批判が理想を高く掲げる人に向けられることはない。実行するための知恵がないなら、高い理念や目標を掲げてはいけない、ということにはならないのである。大風呂敷を広げるある意味の無責任さがもたらす議論の崇高さが、国際社会ではときに必要であり、評価もされる。(p.129-130)

また、グローバル交渉の具体的なやりとりが書かれた類書で面白かったものとして、通産省出身のサッカー協会・元専務理事平田さんが書かれた以下の本がある。こちらも合わせて読むと国際交渉の重要性と理解が深まると思う。

サッカーという名の戦争―日本代表、外交交渉の裏舞台 (新潮文庫)

サッカーという名の戦争―日本代表、外交交渉の裏舞台 (新潮文庫)

天冥の標VI 宿怨 PART2

天冥の標6 宿怨 PART 2 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標6 宿怨 PART 2 (ハヤカワ文庫JA)

第6巻の三部作のパート2ということで、前作のパート1の続き。

第1巻が29世紀の話。
第2巻が21世紀の話。
第3巻が22-24世紀の話。
第4巻が24世紀の話。
第5巻も24世紀の話。
第6巻は25世紀の話。
第1巻の壮大な物語の過去を第2巻以降から様々な伏線がはられた上で書かれており、読み進めるうちに少しずつ全体の世界観が分かってくる。全10巻とのことだが、1つのパートが第6巻のように文庫本3冊にわかれていたりと、ものすごいボリュームになっている。現在進行中で発売されるたびに買って読み進めているが、おそらく全巻出たあとに最初から読み始めるには相当な勇気と時間が必要だろう。。。
ただし、内容は非常に面白く、特に第6巻まで進みおぼろげながら全体像が見えてきたので、最初はまったく検討もつかなかった第1巻のストーリーへの展開が色々と想像できるようになってきた。今後の世界の動きをどのように想像するのか、それも10年、20年先の話でなく、100年、200年先地球はどうなっているのだろうか。この本にかぎらずSF本全般にいえることだが、特にこの本では色々と考えさせられる。
最も技術的な意味での発展は果てしないところまで到達しているが、その中で生きる人間(この時代ではもはや人間とひとくくりにできませんが・・・)の争いは今と変わらず続いている。。。
そしてその人間の背後には不気味な高度生命体が存在しているようなのだが、これも次第に明らかにされてくるのであろう。この壮大なストーリーがどのように展開されるのか、今後も一巻ずつゆっくりと読み進めて、遥かなる未来の話を一緒に想像していきたいと思う。