マイケル・サンデル「それをお金で買いますか」

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

お金で買うことができるものは何か、あるいはお金でかってはいけないものはあるか。あるとしたら、それはどのうようにして決められるのだろうか。本書では、この問題について様々な事例をもとに検討をしている。大行列に割り込むためにお金を支払うこと、臓器売買、赤ん坊の売買、結婚式の友人代表スピーチの売買、有名大学入学の権利などなど。。
それが良いのか、悪いのか、本書では明確な結論は出しておらず、様々な学説等を紹介しつつ、どのように考えていくべきか自分自身で考えるためのネタを提供してくれている。
重要なのは、そのことについて考え、議論していく必要があるということだろう。

書物、肉体、学校の意味と、それらの価値をどう決めるべきかをめぐっては、人によって意見が異なる。実際、市場が侵入してきた領域ー家庭生活、友情、セックス、生殖、健康、教育、自然、芸術、市民性、スポーツ、死の可能性の扱い方ーの多くについて、何が正しい規範なのか、意見が一致していない。だが、私が言いたいのはそこだ。市場や商業は触れた善の性質を変えてしまうことをひとたび理解すれば、われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるをえない。そして、この問いに答えるには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない。
そのような熟議は、善き生をめぐって対立する考え方に触れざるをえない。それは、われわれがときに踏み込むのを恐れる領域だ。われわれは不一致を恐れるあまり、自らの道徳的・精神的信念を公の場に持ち出すのをためらう。だが、こうした問いに尻込みしたからといって、答えが出ないまま問いが放置されるわけではない。市場がわれわれの代わりに答えを出すだけだ。それが、過去30年の教訓である。市場勝利主義の時代は、たまたま、公的言説全体が道徳と精神的実態を欠いた時期と重なった。市場をその持ち場にとどめておくための唯一の頼みの綱は、われわれが尊重する善と社会的慣行の意味について、公の場で率直に熟議することだ。(p.282-283)

そして、善き善を考えることはすなわち、我々が誰とどう生きたいのかというところにつながる。本書の結論は昨日のフィルターバブルの話と通じるところがあり、結局のところ市場に任せると金銭によるフィルタリングがされてしまい、同じ所得層の人としか付き合う必要がなくなるということである。異なる職種や価値観をもった人と出会う機会が減ってしまう。そうなると共通善を尊ぶという考え方は身につけられないのではないか。

つまり、結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。(p.284)

この「ともに」という点が一番考えさせられる言葉だった。