そんな風に生きてない

UP11月号の長谷部氏の記載から。
カント主義とオルソン主義について。

道徳律に関するカントの考えは、「みんなが自分と同じことをしたらどうなるか」を想定し、それに基づいて、自分がいかに行動すべきかを決めるものと理解されている。
自分がしなくても誰かがするだろう、という仮定はとれないことになっている。
カント主義は、実際の行動の指針としてはとりえない。人はこんな風には生きていない。カント主義がもたらす気持ち悪さは、ここにある。

カント主義の逆の極端に位置するのが、オルソン主義である。オルソンの想定する合理的な人間は、「みんなが自分と同じことをしたらどうするか」という問いに対して、「だったら自分もおなじことをしなげれば」と答える人間である。
オルソンは、人は合理的に考えるならば社会全体に便益が満遍なく及ぶ公共財の実現に貢献しようとは思わないものだという。自分がそれをしようと姉妹と、当該公共財が必要なだけ供給されるか否かとは関係がない。であれば、そんな貢献を行うことは合理的とはいえないはずである。とすると、人は合理的であろうとする限り、そんな貢献を使用とはしないだろう。
では、公共財は供給されなくても良いのかというと、オルソンはそうはいわない。だからこそ、公共財が供給されるためには、外部からの「強制や誘導」が必要なのだという。ここに第一の気持ち悪さがある。
いや、外部からの強制や誘導の仕組みを作る段階になれば、さすがに人間も全体の利益に目覚めて、みんなそれに協力するようになるのだという応答が考えられるが、だとすれば、なぜ最初の段階ではそうした視点が生まれないのか。第二段階で生ずる視点が、当初の公共財の提供のレベルでは生じるはずがないという理由が良く分からない。ここに第二の気持ち悪さがある。

政治思想史家のリチャード・タックは、オルソンの議論には最初の段階でそもそも欠陥があったのだという。タックによれば、公共財の提供について、個人がなしうる貢献はみな無視しうるに足るもので、あってもなくても同じだという想定は、常にあてはまるわけではない。
タックは、ここで発生するのはチキン・ゲームだという。

ここからいろいろと考えてネットサーフィンしていたら、明治大学の高橋一行教授の「格差社会をどう生きるか」という論文を見つける。
論文タイトルからまったく想像もしていなかった内容で面白い。

特に上記のオルソン主義との関連という点で、「1-4伝播論」の問題意識は勉強になります。

ここのところ、政治思想史上の考えを数理モデルで説明するという作業を私はずっと続けてきた。最初に扱ったのは、ゲーム理論を使った、ホッブズの社会契約論解釈である。この本の主張のひとつ、つまり社会と個人がどんな関係にあるのか、ということに関係する限りで説明してみたい。 利己的な諸個人が集まって どのようにして 100%の同意による社会契約が結ばれるのか、という難問はホッブズ問題として知られている。ホッブズはその問題に対していくつかの解答を示したが、それらは後にゲーム理論が与えたジレンマ克服の可能性に酷似している。私は以下に、ゲーム理論の与える幾つかのゲームをホッブズの説明と対応させて、紹介したいと思う。