日韓の戦後史(2)

日韓の戦後史(1)からの続き。

韓国の対日請求権問題が解決したのは1962年の大平外相と金中央情報部長会談だった。ここでは、日本側が無償経済協力3億ドル及び円借款2億ドルを供与することで妥協している。ただ、ここで疑問に思うのはなぜ賠償金ではなく経済協力なのか、ということだ。
これは例えれば、人に1万円貸してもらって、それを返してくれと言われたときに、コーヒーおごるからそれで勘弁して、と言うようなことではなかろうか。
これには日本としては大蔵省的な「根拠示せ」という政策があったようである。「賠償金を払うからその賠償額を根拠とともに提示してください」という感じの事をいったようで、これに対して韓国は実際に証明できる額は非常に少額で、かなり困ったことと思う。韓国としても当時は経済開発に力を入れていたときでもあったので、結局経済協力で妥協した、というところだろう。

そしてその後佐藤内閣のもとで、椎名外相が戦後の外相として始めて韓国を訪問し、始めて公式に謝罪するのである。
日韓共同コミュニケ

李外務部長官は過去のある期間に両国民間に不幸な関係があったために生まれた,韓国民の対日感情について説明した。椎名外務大臣は李外務部長官の発言に留意し,このような過去の関係は遺憾であって,深く反省していると述べた。
これにより、韓国の国民感情を落ち着かせ、一挙に基本条約への調印へと持ち込むのである。

ただ、調印へと持っていくために解決しなければならないことのもう一つとしては双方の歴史認識問題があった。日韓双方が歴史認識についてどのように考えているのかについては日韓基本条約の第2条をみてみると分る。
日韓基本条約

第二条
 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は,もはや無効であることが確認される。
ここで確認したいのは、日本が戦時中に韓国に対して行なった行動は(当時は)合法であったか、という点だ。韓国は当時から違法だったので「無効」だと主張するし、日本としては今は「無効」であったが、当時は合法であったと主張している。で、第2条はどっちの主張を取り入れているのかと思ってみてみると、これはどちらにも解釈できる、というなんとも奇妙な条文になっている。これが世に言う玉虫色条文なのだが、結局これによって双方の歴史認識はズレが生じたまま現在まで至っているのである。
で、最後にこれと関連して竹島問題に関しても触れておきたい。日本の主張としては1905年に無人島であった竹島を占有し、それに対してどこからも非難がなかったので、これは国際法上の占有を意味する、という立場から竹島は日本の領土であると主張している。これに対して韓国は当時の1905年は勧告は日本の管轄下にあり非難したくてもできなかった、と言ったりしており、これに関してははっきりしたことはいえない。それでは戦後の条約では竹島に関してはどのように記述されているのか。
と思って調べてみると、サンフランシスコ平和条約日韓基本条約のともに竹島に関しては一言も触れられていないのである。これはロシアの北方領土問題でも同様だが、これらの戦後の条約(特にサンフランシスコ条約)でこのあたりの領土の区切りをはっきりさせなかったことが、現在まで尾を引いているようなきがする。
竹島問題に関しては詳しくはWikipedia竹島(島根県)を参照。

というわけで以上が日韓の平和条約調印に至るまでの外交史でした。