日韓の戦後史(1)

日本と韓国が国交正常化したのが1965年の日韓基本条約である。
とりあえずこの条約にいたる過程を振り返ることとする。
まずここで注目したいのは、1965年までになぜ和解できなかったのか、というところだろう。
韓国は1948年に政府を樹立していたし、日本も1951年10月から韓国と国交正常化交渉に入っているのである。しかし、それから実際に正常化するまでには14年という長い歳月がたってしまっている。
この理由をまずは探ってみることにしたい。

日韓交渉を難しくした事として大まかに言えば二つのことが言える。
第一の問題としては、双方の国民感情だ。
韓国は李承晩政権のもとで、朝鮮半島をとりまく広い海域に一方的に主権を設定し(*これは李承晩ラインと呼ばれる)、そのラインをまたぐ日本漁船の拿捕、乗組員の抑留を始め、日本国民の対韓国の感情を著しく悪化させた。したがって、日本国民自体に韓国との関係を改善しようという政治的支持が弱かったのである。

そして、日韓間での賠償問題がもう一つの問題であった。

そもそも日本は韓国に賠償する義務はあるのだろうか。これを確認するためには日本の賠償義務等が規定されてあるサンフランシスコ平和条約を参照してみる。この中において、韓国(朝鮮半島)に関し直接述べられてある条文は、第2条、と第21条である。

第二条
 (a) 日本国は,朝鮮の独立を承認して,済州島,巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。
第二十一条
 この条約の第二十五条の規定にかかわらず,中国は,第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有し,朝鮮は,この条約の第二条,第四条,第九条及び第十二条の利益を受ける権利を有する。
第21条には第4条、第9条及び第12条に言及しているが、ここでは第4条を引用しておく。
第四条
 (a) この条の(b)の規定を留保して,日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は,日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は,まだ返還されていない限り,施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。(国民という語は,この条約で用いるときはいつでも,法人を含む。)
ここで日韓双方の解釈の違いが生じたのが「特別取り決め」である。日本は韓国に対して双方が特別取り決めによって賠償問題を解決する、というのがその趣旨だ。
ただ、この二つの条文に関して日本、韓国は異なる解釈をとっている。

韓国:2条(a)で日本は韓国に対する請求権を放棄している、よって「特別取り決め」によって賠償請求をできるのも韓国のみである。
日本:2条(a)で日本国の権利は放棄している。しかし、日本国民の権利は放棄していないので、「特別取り決め」によって、韓国に残っている日本人の私有財産に関しては返還請求できる。

このような解釈の違いが日韓交渉において大きな壁となった。さらに悪い事に、「久保田発言」が韓国の強い反発を招き交渉階段は決裂してしまった。久保田発言に関しては以下の参議院質疑を参照。
日韓会談「久保田発言」に関する参議院水産委員会質疑

従いまして請求権の分科会でも劈頭早々先方では今までのようないわゆるフアクト・フアインデイングと言いますか,事務的なことをやめて,単刀直入に問題の本質に入つて行こうということで,向うのほうからは請求権の問題につきましては,日本側の要求というものは認められないので,日本側の請求権というものはないのである。請求権の問題として考えられるのは韓国側から日本に対する請求権の問題だけである。その範囲できめればいいのだ,そういうふうに出ておりましたものですから,勢い我が方としても主義の問題に入らざるを得なかつたわけでありまして,私どもとしましては日本側の従来の請求権の,つまり私有財産の尊重という原則に基いた対韓請求権は放棄しておらないのだという議論に入らざるを得なかつたわけでございます。そうしますと向うのほうでは早速日本の請求権の要求は多分に政治的であると,まあこういうわけなんです。その意味はよくわからないのですが,実は日本の請求権の問題は政治的ではございませんでして,非常に細かい法律論ではあるわけでございますけれども,向うはそう申しまして,政治的であると,ところが韓国の請求権の要求というものはもう裁判所にも出してもいいような細かい最小限的な要求で全部法律的であるのだ,若し日本のほうでそういうふうな政治的な要求を出すということが前から韓国のほうでわかつておつたと仮定すれば,韓国側のほうでは朝鮮総督の三十六年間の統治に対する賠償を要求したであろう,そう出て来たわけでございます。そこで私どもとしましては韓国側がそういうふうな朝鮮総督政治に対する賠償というふうな,それほど政治的な要求をいたさなかつたことは賢明であつたと思う,若し韓国側のほうでそういう要求を出しておつたなれば,日本側のほうでは総督政治のよかつた面,例えば禿山が緑の山に変つた。鉄道が敷かれた。港湾が築かれた,又米田……米を作る米田が非常に殖えたというふうなことを反対し要求しまして,韓国側の要求と相殺したであろうと答えたわけでございます。
おそらく、この日本側の主張は今となるとかなり無理があるきもするが、日本にとっては相手国から一方的に請求されるだけでは外交戦略として不利となるので、なんとか探り出した戦略だったのだろう。また、李承晩政権による反日政策が日本を刺激したことも背景にはあったと思う。

さて、そんなこんながあって交渉は決裂してから再び再会したのが1957年である。なぜ再びこの時期に再会する事となったのかについては2つ程理由が考えられる。
まず第一にアメリカの影響があった。アメリカとしては極東における対ソ・対中戦略の遂行のためには、日韓という同盟国の間の関係が正常化しないことが大きな障害だったからだ。
第二に、日本の当時の首相であった岸首相の意向があったのではなかろうか。日本としては李承晩政権によって抑留された人々の返還が急務であり、その声が日本の中で高まってきていた。さらに岸首相は山口県出身であり、抑留された漁民もかなりいたのではないかと思うので、地元からの要請もかなりあったのではないかと推測できる。
以上の理由から日本としても日韓正常化にむけて本腰を入れ始めたのである。
ただ、実際にはここでもなかなか交渉が進まなかった。これはお互いの国の内政状況があった。日本は安保運動があり、韓国も軍事クーデターなどで国内が混乱したからだ。結局本格的に交渉に入ったのは韓国で朴正煕大統領が登場してからである。
日韓の戦後史(2)に続く。