沢木耕太郎「凍」

最近登山系の本(自分が登るためのノウハウ本というよりは、登山家の自著伝であったり、登山を題材にした小説)を何冊か集中的に読み漁っている。その中で以下の本を読み終わった。

凍 (新潮文庫)

凍 (新潮文庫)

なぜ本書かとというと、
Sports Graphic Number Do 大人の山登り。 (Number PLUS)

Sports Graphic Number Do 大人の山登り。 (Number PLUS)

上記のNumberの雑誌を読んでいて、山野井氏のインタビュー記事に興味を持ったから。
この記事はNumberのWEB上でも掲載されていて読むことができる。
Number「日本一のアルパインクライマー 山野井泰史

アルパインスタイル、ソロによるヒマラヤの高峰登山で世界に名を馳せたクライマー山野井泰史沢木耕太郎の『凍』に描かれたギャチュン・カンでの壮絶な生還劇から10年。凍傷で手足の指10本を失ってもなお、山と岩壁への情熱は変わらず燃え続けている。その原動力となるものは何なのだろうか?

この記事で本書が取り上げられており、特に著者が私の好きな沢木氏ということもありさっそく読んでみたが、本当に過酷な冒険で生死をかけた登山であり、手足の指10本を失うだけですんだのが本当に奇跡のようだ。そして、それをまさに本人が書いたかのように書き上げた沢木氏の技量も凄いと改めて思った。
山野井氏の山や岩壁への原動力となるものは何かという点については、本書では以下の表現が心に残った。

 ただ、頂を前にした自分には常に焦っているところがある、ということが山野井にはわかっていた。決して功名心からではなく、そこに確かな山があるとき、その山を登りたいという思いが自分を焦らせてしまうようなのだ。
 それは頂上に登った瞬間の達成感を欲しているからだろうか。いや、そうではない、と山野井は思う。頂上に登った瞬間ではなく、頂上直下を登っている自分を想像するとたまらなくなるのだ。間近に頂上が見えている。そこにはまだ到達していない。しかし、もうしばらくすれば辿り着くだろう。そうした中で、音を立てて吹きつけてくる強い風の中を、一歩一歩登り続けている時の昂揚感は何にも替えがたいのだ。(p.196)

達成感ではなく、昂揚感。
自分は果たしてどんなときに昂揚感を感じるだろうか、などと色々と考えてしまった。